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6月4日の石響公演に向けて、説経について研究をはじめました。
「説経について」室木弥太郎氏『新潮日本古典集成 第八回 説経集』解説より
説経とは
語り物(口から耳に伝えられる)、口承文芸(昔話・伝説・ことわざを含む)。
「説経節」「説経浄瑠璃」ともいわれる。近世(江戸時代)では、多く「説経」の字を当てるが、「説教」を当てることもある。便宜上、「説経」に統一し、お坊さんの「説教」と 区別する。
それを語る専門の芸人も、「説経」・「説教」「説経説き-せっきょうとき)・「説教者」という。
ex. 内容「せつきやうかるかや」/語り手「説経与七郎」
時代
説経は、中世の芸能である。
説経らしくその特色を発揮したのは、劇場に現れる以前の野外芸能の時代。十五世紀末、安土桃山時代(1568〜1600)までさかのぼる。(この時期の説経を確かめる資料はほとんどない)ひかえめに1600年(慶長五年)前後を説経の時代と考える。
1600年(慶長五年)ごろ、一部の人を別として、一般には文字や本になじまない生活を送っていた。しかし文字を知らないと不便であり、また知らないことを恥として、文 字の学習が熱心になった。(当時の『洛中洛外図』を見ると京都の商家や芝居に、文字を記した看板が次第に増えていく)それでもまだまだ文字の文芸から遠く、語り物の大 衆化、国民文学的な普及になっていった。
中世の語り物の主流は、平曲(『平家物語』を琵琶の伴奏で節を付けて語る。平家・平家琵琶ともいう)盲僧の専業。
中世末になると平曲の人気が落ちたため、他のいろいろな芸能をやっている。
『言継卿記(ときつぐきょうき)』天正二十年(1592)八月十五日の条では、福仁という座頭が、平家のほか、浄瑠璃・小唄・三味線・早物語をやっている。
(三味線をひきながら浄瑠璃を語ったかどうかはわからない)
座頭が浄瑠璃を語ったのは、享禄四年(1531)以前からであるが、(柳亭種彦氏指摘)このころの浄瑠璃はまだ一地方の語り物であった。矢作(やはぎ)の宿(愛知県岡崎市)の遊女浄瑠璃御前と源義経の恋物語『浄瑠璃御前物語』を語った。
天正(1573〜92)ごろ「尼君物語の浄瑠璃」が行なわれた。(『奥羽永慶軍記』)
舞曲『屋嶋軍(やしまのいくさ)』と同材らしく、『浄瑠璃御前物語』を語ると同じ節回しで、他の作品も語ったことが分る。平曲に代わり浄瑠璃が徐々に台頭。
(中世の語り物は、平曲のほかに『曽我物語』『義経記』も語り物を素材にしたと考えられている。義経、曽我兄弟の悲壮な運命をたどった人物は、取り分け人気があり、死去間もなくから熱心に語られた)
『をぐり』は絵巻物。(他作品は刊本)寛永十六年(1639)正保五年(1648)ごろできた。江戸時代以前からよく似たものが行なわれたに相違なく、説経の中の説経。
初期の説経の刊本では『せつきやうかるかや』とわざわざ「せつきやう」何々として、浄瑠璃ではないということを示す。
説経が盛んに行なわれたのは、江戸時代の初期(17世紀)。浄瑠璃にやや後れて、劇場に進出し、その正本-しょうほん(テキスト)も刊行され、いっそう著名になった。
都市の発達に伴い、大勢の人を一度に収容し、入場料で経営する芝居(劇場)が生まれ、劇場にふさわしい芸能が工夫されるようになった。(歌舞伎・浄瑠璃)
説経も浄瑠璃をまねた。伴奏に三味線を用い、その語りを繰り人形で演出する。また初段・二段・三段と六段ぐらいに分け、各段の間に余興を入れ、お客を退屈させないようにした。(劇場芸能としての変革)
江戸の天満八太夫(石見掾-いわみのじょう)の時代が一番華やかだった。(元禄四、五年1691〜92)(信多純一氏による)
ササラを捨て三味線を使うようになったのは、三味線の流行によるが、おそらく劇場進出がきっかけで、寛永八年(1631)より少し前のことであろう。
段別のない従来 の説経が、浄瑠璃と同じく六段になったのは、遅くも万治元年(1658)からである。 このころから急速に旧作品の改作、それに新作、浄瑠璃の改 作も手掛け、新しい説経の時代を迎える。その代表者は、江戸の天満八太夫。
『あいごの若』『まつら長者』はこの時期の刊本を底本にしたが、いずれも古い正本がないため。古い説経の面影をよく残しているにしても、段分け、段初段末の慣用句、戦闘場面の増補など、説経浄瑠璃の名がふさわしい。
「をぐり」は、段別がなく、古風。
都市の劇場に出入りするようになって、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく。
延宝三年(1675)刊行の『おぐり判官』の冒頭では、「それつらつらおもんみるに、天神(てんじん)七代地神五代より、かく人皇に至るまで、君君たれば臣臣たり、四海波風静かにて、国土豊かに治まれば、なびかぬ草木はなかりけり」とすっかり浄瑠璃風 になり、正八幡も結ぶの神も出て来ない。浄瑠璃同様重々しい教訓的な言葉で始まり、語り手の威厳を示そうとするようになった。
(佐渡七太夫豊孝は、説経復興の志があったためか、その正本は古体を残している)
一部の説経が劇場に進出した後も、寛永・正保(1624〜48)までは、相当旧態を維持し、その正本も1600年ごろの面影を十分残している。
(「あいごの若」「まつら長者」は、浄瑠璃風に六段になっており、新しい説経)
説経は、浄瑠璃との競争で、その独自性を発揮するため、古体を残す必要があった。しかし大勢に順応して、浄瑠璃風に新味を出そうと努めるとともに没落していった。
語り手
説経の人々はどういう姿で語り歩いていたか。
ササラこじき---説経を語る人々は、当時、簓乞食ともいわれた。簓は茶筅(ちゃせん)を長くしたような形で、竹の先を細かに割って作る。それで、刻みをつけた細い棒(簓子(ささらこ))をこすると、さらさらと音を立てる。それでササラという。楽器というほどのものではないが、これを伴奏にした。後に胡弓や三味線に替えたが、本来はササラである。
京都国立博物館編『洛中洛外図』所載の八坂神社所蔵図の解説によると、(元和のころ(1615〜24)の制作。)広いむしろの上に立ち、長い柄の大傘(おおからかさ)を肩に寄せてかざし、両手で簓(ささら)をすりながら語っている。三十三間堂境内の人通りの多い処で、周りに座っている数人の中には、泣いている者もあり、座ったままひ しゃくで金を集めている者もあり、聞き手が投げたと思われる銭が、辺りに散らばっている。
徳川美術館蔵、絵巻『采女(うねめ)歌舞伎草紙』は、初期の女歌舞伎の説経を取り合わせているがもっと堂々としていて、羽織を着ている。ササラ・大傘・羽織が説経の特徴ある姿であったらしい。
元禄三年刊『人倫訓蒙図彙』大傘を捨てて菅笠(すげがさ)をかぶり、ササラの代わりに胡弓(こきゅう)あるいは三味線を持って門付けをするようになる。
『洛中洛外図』所載、西村啓一郎氏所蔵図では、本来の姿で門付けしているが、それは時代が比較的古いからであろう。
そういう門付けを、当時門説経(かどせっきょう)といい、乞食同様の者であった。
都に歌念仏の日暮(ひぐらし)一派があり、説経を語る。
万治・寛文(1658〜73)ごろの日暮小太夫は特に聞こえたが、この一派は鉦鼓(しょうご)を用いた。しかし劇場で語った時は、三味線を用いたであろう。
大傘を持つ---何か理由があって古くからの続く。雨や日をよけるためばかりでなく、田楽法師が傘を持った伝統であろうが、傘の形をした松を神様松という地方があり、おそらく神のよりましといった、権威を示したのであろう。
説経が取材し脚色した以前の語り物を考えると、『かるかや』は高野聖(こうやひじり)かも知れず、『さんせう太夫』『をぐり』は、日本海と大平洋の沿岸を歩く巫女(ふじょ=みこ)であったかもしれない。
いずれにしても、各地を放浪して人の集まる寺社の傍らで語っていた時代の、宗教味を漂わせた語りの形式である。
初期の説経の刊本では語り手は、「説経与七郎」と「説経」何々とする。『さんせう太 夫』は説経与七郎の正本(しょうほん)『さんせう太夫』明暦二年版(1656)と『しんとく丸』は説経佐渡七太夫の正本。
あるいは寛永八年版『かるかや』も与七郎の、絵巻『をぐり』も両人いずれかの語り物かも知れない。
いろんな点から与七郎・七太夫は師弟か、それに近い関係の人で、写本『かるかや』も与七郎ではないだろうが、同系の人であることは間違いない。
説経には、主に助詞の「て」に付く「に」という間投詞をはじめ、独特の用語がある。高野辰之氏はこれを「伊勢の特殊用語」としたが、果たしてこれが当時の伊勢方言かどうか確かめることはできない。しかし蝉丸神社文書等の資料から考えて、与七郎と佐渡 七太夫の出身は、伊勢あるいはその近辺と思われる。
『さんせう太夫』与七郎正本に「摂州東成郡生玉庄大坂天下一説経与七郎」とある。生玉(天王寺区、生国魂(いくたま)神社境内で説経の芝居の興行をしたのであろう。(水谷不倒氏解釈)
『色道大鏡』に「説経の繰りは大坂与七郎といふ者よりはじまる」とある。大坂与七郎がそうであるように、佐渡七太夫も、佐渡で興行に成功したといった因縁によるのではないか。佐渡は金山でにぎわい、芸能者がこぞって渡島したようで、歌舞伎の創始者と いわれるお国も、ここを訪れたと伝える。
説経は本来野外の芸能であるが、与七郎が人形繰りと結んで初めて劇場に進出した。画期的なことである。さらに本屋(板元はんもと)は正本(テキスト)を絵入りの読み物として刊行した。おかげで語り物説経は、文字になって固定し今日に残る。
都市と劇場と出版が説経を中世からよみがえらせた。
平曲の盲僧、青森県のイタコ、新潟県のゴゼのような盲女、盲人だけでなく、一般に唱導(説法)を専門とする比較的身分の低い僧尼が多数いた。そういう日常旅を暮らす人々によって、語り運ばれたのであるが、交通の便がよくなり、農村が豊かになった中 世末期、特に戦国時代以降に最も活況を呈し、その中から浄瑠璃が、抜きん出たと想像される。
東海道の勇者が勝利を得たのとよく似て、浄瑠璃の台頭も地の利を得たということがあろう。
浄瑠璃が近世の語り物として成功したのは、現在では分らないが、内容だけでなく、その語り、節回しが平曲などに比べ、余程新鮮であったからであろう。また三味線という新しい楽器を伴奏に使った点もあり、さらに繰り人形を利用して、劇場芸能にふさわしい演出を試みたということがあろう。
説経は、織田信長にひいきにされた幸若(舞)の一派を除く、非幸若のように乞食同然に転落した者も多いが、語り物の新しい転換に積極的であり、浄瑠璃と対抗しあるいは妥協して、相当長く生きのびた。
説経は幸若のように権力に結びつく機会がなく、宮中に出入りするとか、武将に招かれることもなかった。また中世の幸若のように、農村に 基盤がなく、定住地を持たず、各地を放浪していたのではないかと思われるふしがある。身分的にも経済的にも底辺に沈淪(ちんりん)しながら、大衆の支持で、かろうじ てその芸能に生きることができた。それが近世になっても柔軟に対応し、最後の活力を 発揮したゆえんであろう。
次第に浄瑠璃に吸収されていくが、後の芸能・文芸に及ぼした影響は舞曲を超えるものがあった。
江戸時代、説経の人々は、東は滋賀・三重・岐阜・愛知・静岡・長野、西は京都・大 阪・兵庫・岡山・香川に散在しているが、相互の交流は距離的もあまり行なわれなかったようである。しかし蝉丸の宮を中心に結び付いていたといえる。彼等のうち与七郎らのように、劇場に進出して成功した者もあるが、中には賤業(死人の取り扱いなど)を強いられるなど、ほとんどが貧困にあえいでいた。
正徳元年(1711)以降は、三井寺の別所近松寺が、彼等を直接支配するようになったが、寺の権威にすがらねばならぬほど、弱い存在であった。
能楽に「自然居士(じねんこじ)」「華自然居士」「東岸居士」「西岸居士」という曲があり、いずれも古い説経者を主人公とした作品。特に「自然居士」(観阿弥の作といわれるが、現行のものは世阿弥の改作であろう)は有名で、ここに登場する説経者自然居士は、人買いの男から娘を救うため、ササラをすり、羯鼓(かつこ)を打ちながら舞を舞う。説法もさることながら、そういう芸能も得意であったことがわかる。(鎌倉時 代末(十三世紀末)に同名の芸能者があって、それをモデルにし、美化した作品)
自然居士はこの当時から乞食といわれた。久松家の絵巻『天狗草紙』によると、「放下(ほうげ)(一切の執着を捨てること)の禅師と号して、髪をそらずして、烏帽子をき、坐禅の床を忘れて、南北のちまたにササラすり、工夫(考えめぐらすこと)の窓をいでて、東西の路に狂言す(気違いじみたことをいう)」とあり、絵にはその通りの人 物が、ササラを持って踊り歌っているように見える。
『尾張志』では、自然居士の弟子東岸居士を祭る者があり、それはササラすりという戸籍の外の遊民であるとしている。従ってササラこじき--説経というのも、この系譜を引くと見て間違いないだろう。少なくとも十三世紀より約三百年間、ちらりとその姿を見せるが、ササラで象徴される、下層の芸能者である。
企画をした人
目貫屋長三郎、監物(けんもつ)・次郎兵衛は、盲僧でも、芸能の家の出身でなく、素人のように思われる。後の竹本義太夫、近松門左衛門など、素人によって開発されたということは重要である。説経や舞曲は素人が飛び込む余地がなく、その殻を破り得なかった。
場所
人がよく集まる所、例えば逢坂山のふもと、京都の三十三間堂、北野神社、大阪の四天王寺、江戸の増上寺など、広々とした寺社の境内などで語った。
時間
一篇を語るのに相当時間がかかり、相当の力量を要したであろう。中でも、与七郎・七太夫は第一級の芸能者で、ただの乞食ではない。
説経の世界
説経の人々の系譜は、作品と深く関連している。
『しんとく丸』の主人公は盲目のこじき、『さんせう太夫』のつし王も都の権現堂(ごんげどう)から四天王寺までこじき同様。『をぐり』の小栗判官は餓鬼阿弥(がきあみ)といわれて土車に載せられるが、餓鬼阿弥が癩患者の別名になるほど、それは醜悪なこじきの姿である。照手姫も転々と売られ小萩の名で下水仕(しもみずし)となる。 奴隷である。
奥州・九州、関東の大領主、都の公家、河内や大和の長者といった、それぞれの出身のきらびやかさは、表面だけのもので、中身はこじきや奴隷といった下層民の世界である。そこに説経の他の文学に見られない、暗黒・悲惨の一面がある。『平家物語』や舞曲に見るような、華々しい戦闘の場面はないが、仇敵に対する峻烈極まる処刑は忘れない。その登場人物は、やや思考性に欠けるが、極めて行動的であって、強情一徹に自分の意志を貫くというたくましさがある。
『かるかや』御台所、姉娘があくまで優しく自分を捨てて夫や息子、父や弟に奉仕し、しかも一片の幸せも得ず落命するはかなさは、後の浄瑠璃や歌舞伎に見る日本的悲劇の祖型を示す。
決断が早く、まっしぐらに行動するのが、主人公の特徴。『さんせう太夫』の安寿姫、『しんとく丸』の乙姫、『をぐり』の照手姫、『まつら長者』のさよ姫は、いずれも女性であるが、そういった積極的な人物である。照手姫は恋に猛進あるいは盲進する誠実 そのものの女性。毒殺された夫がよみがえり、見る影もない餓鬼の姿になっているのに、夫と知らず愛着し、貞節を尽くす。ありえないような極限の、異常な恋愛であって、愛への献身である。
神仏の霊験・利益(りやく)が現われたり、誓文の神降ろしといった独特の語りがあったり、中世的な宗教性が作品の特徴になっているが、それ以上に登場する人物の強い意 志がまっすぐ貫かれて、神や仏がそれを助けるというのが特色。それはまたその当時の 進取の気風を反映したものであろうし、新しい時代に迎えられ、芸能・文学に繰り返し 再生されて、今日に及んだ理由の第一であろう。特に女性達の、まなじりを決して苦痛 に耐え抜くその行動性は、説経の大きな魅力で、後の近松門左衛門の作品にも、そういう女性が装いを新たにして登場してくる。
説経は、すべて説経の人々の敢然な創作ではないと考える。彼等には、それだけの才能やゆとりがなかったというより、語り物あるいは芸能の、長い伝統と習慣といってよい。従来よく行われた、大衆になじみの多い作品を、脚色・改作するのが、確かな人気 を得る、最良のやり方で、国文学はそういう過程で生まれている。
説経以前にすでに同材の作品(語り物)あって、それを改作し、脚色したのであろう。(小栗が四天王寺から熊野湯の峰へ土車で運ばれた通り筋を小栗街道という。湯の峰に は今も小栗湯の名が残っている。小栗ゆかりの藤沢市清浄光寺(しょうじょうこうじ)内には、小栗・照手のささやかな墓がある。この辺りも記念碑がいくつかある)
人間像は、時代の好みに沿って変わる。そういう語り物はいずれも当初地方に生まれ、全国に伝播したとみてよい。
他の説経作品
説経らしい説経、あるいは古体を残した説経は、他にどういうものがあるか。
『あいごの若』『まつら長者』の底本は、いずれも万治元年(1661)の刊行であるが、そのころまでに実際に語られ、正本として刊行されたものは、
『熊野之権現ごすいでん』(『熊野の本地』)万治元年十月刊
『目蓮記』万治ごろ刊
『梵天国』(写本)
『松平大和守日記』万治四年二月十三日の条に、説経の草紙(正本)として「かるかや」「さんせう太夫」「しんとく丸」「をぐり」「あいごの若」「目蓮記」の他に、
『隅田川』『阿弥陀の本地』(法蔵比丘(びく))『釈迦の本地』『殺生石』(正
本不 明、謡曲「玉藻の前の伝説を素材にしたものか)『といだ』(正本不明、浄瑠
璃のほう で五部の本節(ほんぶし)の一とする「戸井田」と同じものかどうか)
『法蔵比丘』『釈迦の本地』は後に出た正本が残る。
正徳・享保(1711〜36)のころ、佐渡七太夫豊孝という説経、説経の伝統を守ろうと努力。当時すでに衰退していて彼が刊行したものに説経の古典といっていいものがある。
『さんせう太夫』『をぐりの判官』『こすいでん』(『熊野の本地』)『伏見常磐(ときわ)』『志田の小太郎』『くまがえ』(『熊谷先陣問答』)
(『伏見常磐』『志田の小太郎』は、日暮小太夫の『百合若(ゆりわか)大臣』(寛文 二年刊)・石見掾(いわみのじょう)(天満八太夫)の『兵庫の築島』(寛文ごろ刊)などとともに元は舞曲であろう)
「・・・てに」の語法を含む次の刊本は、『くまがえ』『信田妻(しのだづま)』とともに古い説経かも知れない。一考を要する。
『小敦盛(こあつもり)』正保二年八月刊
『吹上秀衡入(ふきあげひでひらいり)』伊勢嶋宮内正本 慶安四年九月刊
『毘沙門天王之本地』承応三年十一月刊
新作と思われるものを除き、説経の古典を手探りしたのであるが、以上の説経の中
には、浄瑠璃の方で語られているものもあり、純粋の説経とは言いきれない作品があ
る。
著作権も上演権もない時代であるから、一つの語り物を説経の方でも浄瑠璃の方でも、随意に脚色し、随意の曲節で語った。そういう意味で本来説経でないものが相当あるはずである。そういう中でこれが説経の代表と言えるものを選ぶとすれば、躊躇なく『か るかや』『さんせう太夫』『しんとく丸』『をぐり』の四つを挙げる
ことができる。
説経の節
太宰春台の『独語』に、説経の節について「その声もただ悲しきのみならば、婦女これをききては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて」「はなはだしき淫声(いんせい)にはあらず、言はば哀みて傷(やぶ)るといふ声なり」とある。
「あらいたはしや」「流涕(りうてい)焦がれ泣きにける」といった句をしきりに用い、ササラをすりながら、ゆるやかなテンポで語ったのであろう。
絵巻物や奈良絵本には節付けがない。従って『をぐり』も底本が絵巻であるため節が付いていない。
他は絵入り刊本であるため、わずかな節付けがある。コトバ・フシ・クドキ・フシクドキ・ツメ・フシツメ・・
比較的几帳面に記している『しんとく丸』(カッコ内の数字は『説経正本集』第一による行数)
コトバ(6)、フシ(8)、コトバ(7)、フシ(18)、フシクドキ(5)、コトバ(15)、フシ(29)、コトバ(13)、フシ(27)、ツメ(17)・・・・
他の本と併せ考えると、コトバ(詞)・フシ(節)・コトバ・フシと交互に語るのが基本になっていたようだ。
コトバ---日常の会話に比較的近く、あっさりした語り方。フシ---説経独特の節回しがあり、情緒的に語ったのであろう。
コトバとフシが交替してリズムを作っていく間に、クドキ(口説)ツメ(詰)を適度に交えて、全体的に起伏・変化を与えているように思える。しかし曲節についての表記はどの本も不完全で『かるかや』も、中の巻からようやく丁寧になり、語りの句切りを示す(山のようなマーク)の下に、コトバとフシを大体交互に記している。この本の場合、それ以外の曲節の名称は出て来ない。しかしクドキやツメは古い伝統であるから、『かるかや』にもそういう語りがあったに違いない。
『さんせう太夫』では「きやうだいの口説きごとこそ哀れなり」の次に、フシクドキ(フシの部分のクドキであろう)として「あらいたわしやなきやうだいは、さてこぞの正月までは、御浪人とは申したが・・」と続く。恐らく物悲しい沈んだ調子の語り方が されたのであろう。聞く人を泣かせたのはこういう部分であったと想像される。
ツメは急迫した場面に用いられたようで、『さんせう太夫』の場合、邪見な三郎が安寿に焼き金を当て拷問する時、お聖が進退極まり誓文を立てる時などの行われる語り方で ある。
『あいごの若』にはキリ(切)と三重がある。これは場面の終わりに一句切り(ひとくぎり)つける際に使われるが、どういう語り方で三味線との関係はどうかということは全く分らない。この二つの曲節は明らかに区別があるが、その違いも分らない。
ワキという符号の付いたところがあるが、これは太夫に次ぐ者としての脇である。本来は太夫が一人で語ったのであろうが、ワキが太夫を助けて一部を語ることが行なわれ、寛文七年版の『さんせう太夫』の例では、コトバの相当部分を語り、フシの一部を太夫と「つれぶし」で語る場合もあった。
解題
『をぐり』---本地物(ほんじもの)
「をぐり」の冒頭は〈そもそもこの物語の由来を詳しく尋ぬるに、・・おなことの神体は正八幡荒人神〉、末尾は〈小栗殿をば、・・正八幡荒人神とおいはいある。同じく照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神とおいはいある。・・〉
小栗と照手は、それぞれ墨俣の正八幡と契り結ぶの神(結神社)として祭られているが、ここでは、その二人が神となる以前の姿、神の本源、すなわち本地である人間につ いて語られている。神の縁起を語る・本地物の形式をとる。
(これが説経の特色)(都市の劇場に出入りするようになり、旅の必要がなくなり、寺社や仏神が、都市の観客・聴衆に無縁のものになると、本地物の形式は次第に消えていく)
「をぐり」別本(奈良絵本)では、小栗が墨俣の正八幡の御子で、後に都の北野に、愛染明王(あいぜんみょうおう)として祭られ、同じ場所に照手も結ぶの神として祭られたとしている。(『山城名勝志』によると、北野神社の近くの法化堂(ほっけどう)に、愛染明王が祭られていたことがられている)
それより後に出た別本(佐渡七太夫豊孝本)では、小栗は常陸の国鳥羽田(とっぱた)村の正八幡結ぶの神として祭られたという。
以上三つの本は、共通して二人が正八幡大菩薩や結ぶの神に結びついている。結ぶの神は男女の縁をとり結ぶ神で、愛染明王も愛欲をつかさどり、恋愛を助ける神である。
小栗の剛勇、照手の恋愛は、いずれも超人的なものであり、右の神々に結びつくのは不自然ではない。しかも、はっきりとした地名を残している点が注目される。実際に語られた場所によって、地名を異にしたのではないか。また一般庶民があつく信仰した神仏を引き合いに出して、その物語が真実であることを信頼させ、それだけに聞き手の感動 を誘う有効な手段になったに違いない。
藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)(時宗)と深い関係がある。この寺には照姫(照手姫)が永享元年(1429)に建てたというお堂があり、照手姫・小栗ゆかりの品を蔵していた。照手は永享十二年に死去し、長生院寿仏尼といったという(『新編相模 国風土記稿』)。
史実として信を置けないが、ここが照手と小栗について語り歩く、巫女あるいは比丘尼(びくに)といった女性たちの根拠のなっていたことは確かである。また本文に出てくる墨俣(すのまた)の宿には八幡宮があり、その境内すぐ西に照手の社というものがあった(私見ではこの宮は「足日女子(たるひをなご--満ち足りた日の女)殿とも言っ たのではないか)
そのさらに西方揖斐川(いびがわ)の渡し場に近い、結村の結大明神も、照手の社とも小栗の社ともいい、照手の鏡を置くといわれる。(以上『和漢三才図会』『美濃国古跡考』『美濃明細記』による)
これらは、女性の語り手の遺跡のように思える。
福田晃氏によると、小栗の荒馬乗りなど馬の部分は、常陸(ひたち)の国小栗郷で醸成されたものである。また小栗と敵対する横山も馬と関係の深い家である。小栗・照手・ 横山・鬼鹿毛、毒殺と蘇生、観音の身代りなど、清浄光寺及びその近辺に、伝説としてその跡を残していることを思うと、『をぐり』の大部分はこの寺と関係の深い人々、特に女性によって語り物としてまとめられ、説経はそれを素材にしたと考えられる。従っ て『をぐり』は、小栗謀反の一件を伝える『鎌倉大草紙』によったものではなく、『鎌倉大草紙』も説経が素材にしたと同種のものを、エピソードとして記載したのではなか ろうか。
美濃の国には数カ所に説経の人々が居て、寛文九年(1669)の記録では、墨俣に近い竹が鼻(羽島市内)に、庄太夫という説経の居たことが知られている。しかし本書の『をぐり』が彼等美濃の説経によって作られたとするのは無理であろう。もっと複雑な経過をたどって説経の大事な曲目に成長したのであろう。
『をぐり』関連本
・底本 絵巻『をくり』(グでなく、ク)(寛永後期〜明暦ごろ写)
・校合 奈良絵本『おくり』(近世初期写)---略称「奈良絵本」
・仮題『をぐり』(寛永初年刊、古活字版丹緑本、上中下三巻のうち下巻残存)---略称「古活字版」
・草子『おぐり物語』(寛文末延宝初年刊、鶴屋喜右衛門版、三巻のうち中・下巻残存)---略称「草子」
・『おぐり判官』(延宝三年孟夏刊、正本屋五兵衛版)---略称「延宝版」
・佐渡七太夫豊孝正本『をくりの判官』(正徳・享保ごろ刊、江戸惣兵衛版)---略称「豊孝本」
『をぐり』は、後に多くの作品を生んだが、近松の『当流小栗判官』、その改作『小栗判官車街道』(文耕堂・千前軒作)が有名。
蝉丸(さらに一知識!)
江戸時代の記録によると、説経の人々は、蝉丸(せみまる)を祖神とした。
蝉丸は百人一首の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関」で知われている人で、説経の人々は逢坂山の下と上にあった蝉丸の宮(大津市蝉丸神社)の祭礼に各地から集まり神事に奉仕した。
この社は本来道祖神を祭り、旅人の守護神であったが、いつのころか蝉丸を合祀した。蝉丸はこの歌を載せた『後撰和歌集』の当時、天暦五年(951)のころ、あるいはそれ以前の人であるが、その伝記はほとんど残っていない。
伝説あるいは作り話として、延喜(醍醐だいご天皇)第四の皇子といわれ、琵琶の名手でありながら、盲目のため逢坂山に捨てられ、姉君は逆髪(さかがみ)といって狂人であったという。(謡曲「蝉丸」)
蝉丸の宮では、この悲惨な伝説に尾ひれを付けた、「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換し下付した。これが彼等の身分証明書で、これを所持しないと説経が語れなかったらしい。それには蝉丸は妙音菩薩の化身であって、衆生救済を願い、逢阪山を上下する旅人に乞食(こつじき)をするが、それは利益(りやく)方便のためで、心中少しも卑劣なことろはないと記されている。
- 参考文献
- ・作品を翻刻した基礎資料
横山重編『説経正本集』第一から第三(昭和四三 角川書店)解題の他「第三」に信多純一氏の論文二篇を収める
・単行本に収められ比較的まとまっているもの
黒木勘蔵『近世日本芸能記』(昭一八 青磁社)のうち「説経の研究」
佐々木八郎『語り物の系譜』(昭二二 講談社)のうち「八説経」
和辻哲郎『日本芸術歴史 第一巻(歌舞伎と浄瑠璃)』(昭三〇 岩波書店)のうち「第三編 説経節とその正本」
室木弥太郎『語り物(舞・説経 古浄瑠璃)の研究』(昭四五 風間書房)のうち「第三篇 説経」
岩崎武夫『さんせう太夫考--中世の説経語り--』(昭四八 平凡社)
荒木繁・山本吉左右『説経節』(東洋文庫)(昭四八 平凡社)「山椒太夫」ほか五篇を載せ、注釈・解説を付す
・論文として古典的価値を持つもの
柳田国男「山荘太夫考」(『物語と語り物』所収『柳田国男集』第七巻)
折口信夫「身毒丸」(『折口信夫全集』第十七巻)
同「餓鬼阿弥蘇生譚」「小栗外伝」(以上『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻)
同「小栗判官論の計画(「餓鬼阿弥蘇生譚」終篇)」(『古代研究(民俗学篇二)』所収『全集』第三巻)
同「愛護若」(『古代研究(民俗学篇一)』所収『全集』第二巻)
島津久基『近古小説新纂初輯』(昭三 中興館)の「さよひめ」の項
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